http://www.geocities.jp/yomoyanjp/takatoya.html
廃校の 小川村立北小学校桐山分校 登山道 二十三夜供養塔の前を進む 11:16 高戸谷道は直進して、山頂は通らない 山頂へは、左折して登る 11:19 小ピークに壊れた祠が有り、先に進む 急な上りがあり、間もなく頂上 左斜面はイワウチワが群生 11:23ツ黴
http://blog.livedoor.jp/urayamaex/archives/3102074.html
2010年11月22日 登山口がある久津集落は現在、数戸が残る小さな集落ですが、戦後しばらくは小川北小学校桐山分校(S48年閉校)や山の子保育園があり、桐山地区の子供たちが一堂に会する、賑やかな場所であったようです。 ↓皆様のクリックが次回のツ黴
http://pulam.blog.fc2.com/blog-entry-303.html
長野県の山深い集落に残る、分校跡を見に来た。明治15年に開校。昭和44年、校舎新築。昭和48年に統合閉校。事前調査では、校舎の有無を確認出来ず、現場確認するしかなかった。険しい山道を通り、ここから更に林道を通り、桐山地区へ向かう。さすがに林道!中々の狭さだ!酷
http://ogawa-element.ed.jp/school/history/kita_syo/
昭和30年に北小川村と南小川村が合併して小川村が誕生しました。北小川村では、明治30年に北小川尋常小学校(小川北小学校)が、現瀬戸川グランドに移転、増築されました。北畑分校沢入分校日本記分校日本記分校(校庭でのどんど焼き)昭和40年ころ明治 6年:第54番瀬川(らいせん)学校として開校する。(瀬戸川村法蔵寺)。明治 7年:第52番伊折学校(日里村=現中条村)の味大豆支校、高山寺支校開校する。(和佐尾村、椿峯村=明治8年に両村合併し、稲丘村)瀬川学校は、平支校、桐山支校を設置する。明治12年:この頃までに、瀬川学校は次の支校をおく。平支校、古山支校、北尾支校、二又支校、鳥立派出所、桐山支校、法地支校、成就支校、李平支校。明治15年:瀬川学校は、東南二校に分立。瀬川東学校(平)持京支校、法地支校、成就支校、北尾支校。瀬川南学校(土合)古山支校、李平支校(日影村の押切・一ノ坂含む)、桐山支校、二又支校。味大豆、高山寺の二支校は独立して稲丘学校(高山寺)と味大豆支校となる。。明治19年:小学校令発布に伴い、瀬戸川村と稲丘村連合の瀬戸川学校できる。この時、他に稲丘支校、土合支校。和之内派出所、二又派出所、桐山派出所、持京派出所、法地派出所、味大豆派出所。明治22年:瀬戸川村と稲丘村は合併し北小川村となったが、9つの簡易小学校のまま継続。明治24年:北小川尋常小学校(平)となる。飯米場支校、北畑支校、桐山支校、沢入支校。明治30年:北小川尋常小学校、現位置に移転増築竣工。明治36年:北小川尋常小学校、北畑分教場、竣工。明治41年:小学校令改正され、次のように変更する。北小川尋常高等小学校(平)、第一分教場(飯米場)、第二分教場(北畑)、第三分教場(桐山)、第四分教場(沢入)