大滝集落(大滝宿) 関連ブログ・参考リンク
http://ootaki.xsrv.jp/aobagakuen.html
大滝住民が創立に関わった「青葉学園」今まで「青葉学園」については、非公開としてまいりまいたが、平成27年(2015年)8月11日に福島放送(KFB)ローカルニュースで特集として「青葉学園」の歴史がTV放映されましたので、秘匿性は無くなったものと判断し当ホームペ
http://kaido.the-orj.org/waki/otk.htm
万世大路・大滝宿の住宅と生活 (福島県福島市) 2013.09 作成 2015.08 公開 [TOP] [寄り道] 左は昭和46年頃、右は平成25年の渡辺家を同じ場所から撮影したもの 江戸時代の板谷街道に代わり、福島県福島市と山形県米沢市を結ぶ幹線が新規開削されたのが明治14年(1881)。 その馬車道は明治天皇により万世大路と命名され、後には国道13号に昇格した。 開通に伴い、長大な奥羽山脈越え区間にはいくつかの宿駅が新たに設置されることになった。 そのひとつが今回紹介する大滝宿である。 旅籠や運送業で栄えた大滝であったが、奥羽本線の開業、バイパス開通による旧道化などにより次第に衰退。 昭和54年(1979)に最後まで残っていた7世帯が離村し、大滝は廃村となった。 離村してからも元大滝住人同士の結束は固く、「大滝会」を結成して親睦を図っている。 その大滝会の公式HPとも言える「わが大滝の記録」にて、各年代の「大滝集落図」なるものを発見。 勝手に図のhtml化を試みてみたものの、あえなく挫折。 そのまま放置していたのだが、 ある時、これを「わが大滝の記録」管理人氏にお見せしたところ、誤りの指摘や加筆すべき情報を多数頂いた。 さらに加えて、大滝に住んでいた方でしか知り得ない、当時の状況や生活の様子、秘話を伺うことができた。 「これは是非記録として残し、公開せねばなるまい」との思いに至ったわけである。 昭和50年の大滝。黄文字は昭和51年に存在した世帯。 「国土画像観覧システム」より転載・加工 世帯数 胡滝葭 計 人口 明治14年 28 【 凡例 】 明治28年 51 ■■□ 昭和10年時の世帯 ( )内は間借り 22912 43 266 ■■■ 昭和30年時の世帯 □は無人 青字は世帯主に変更があったもの...丹治房吉 ・工夫佐藤留作 亀岡邦雄 阿部政吉 亀岡安雄 渡辺喜蔵 宍戸栄 村上藤市 八巻善之助 野崎重雄 本田正一 相原捨蔵野嵜久吉 ・炊事係後藤留吉 ・賃金支払者総代人 紺野倉治(中野村) (丸中白土社長・紺野四郎氏の父) 支払人 佐藤武雄 (後に大滝分校の教師になる)(青葉学園生徒の里親になる)佐藤c 緑文字 後に建設省福島工事事務所職員(大滝住人ではない) <鳳駕駐蹕之蹟> 2004.11 二ツ小屋隧道・南坑口に現存する「鳳駕駐蹕之蹟」の石碑。(ほうがちゅうひつのせき) 明治14年(1881)に行われた明治天皇東北巡幸の際、当時ここにあった県土木出張所にて休憩したことを記念し、 明治41年(1908)9月に建てられた。(昭和の改修の際、現位置に移設) 左側面には「明治十四年十月三日 御通輦」とあり、右側面には判読不明の文字が刻まれている。 「明治天皇御巡幸録」(昭和11年刊)によると、「中野吉平の和歌」とのこと。 「飯坂湯野温泉史」(大正13年刊)を書いた人物と同じだろうか。 記念碑は旧中野村内に合計3箇所建てられた。 他の2箇所は前出の大滝と、もう一つは円部である。 場所 左側面 正面 右側面 二ツ小屋隧道 明治十四年十月三日 御通輦 鳳駕駐蹕之蹟 (和歌) 大滝 明治四十一年九月十二日建設 鳳駕駐蹕之蹟 明治十四年十月三日 御通輦 円部 明治四十一年九月十二日建設 鳳駕駐蹕之蹟 明治十四年十月三日 御通輦 "隧道"と"円部"は楷書だが、"大滝"は行書。和歌のある"隧道"だけ「御通輦」が左側にある。和歌以外の側面のフォントは3基共通のようだ。"円部"の風化が特に著しい。 大滝円部 2013.06 [TOP] [寄り道] 関連記事 [明治期の万世大路・大平宿] [山深い鉱山跡に創設された私立学校] <<無断転載不可>>
http://michibeya.moo.jp/road/touge_html/R13_ootaki_shosetsu.html
国道13号線 大滝第一トンネル 旧道(大滝宿)大滝宿諸説明治14年、三島通庸によって開削された万世大路。その建設基地にもなった集落が大滝宿です。集落成立の発端としては明治10~12年頃に山林の払い下げがあり、山麓の農民が入植したとの記述があります。万世大路沿いの宿場として物資の輸送、人馬の交通が耐えることは無く大変な賑わいを見せたそうです。・・・・・・・・・・・この万世大路が開通する前、福島から米沢へ抜ける道に「板谷(米沢)街道」がありました。これは福島市庭坂に始まり板谷峠を越えて米沢に至る街道で江戸時代から続く、参勤交代にも利用されていた由緒ある道なのです。こちらの街道にも「李平」という宿場があり大変賑わったそうですが、この板谷街道、車(馬車等も)が通行不能であり、人馬の通行も容易では無かったということから板谷峠越えは苦労があったことと思います。明治の初めには県道にも指定され、賑わいを見せていた街道ですが車両も通れ、人馬の通行も容易な万世大路の開通によってその利用数は激減。さらに追い討ちをかける様に明治32年の奥羽線が開通し板谷街道は完全に息の根を止められ江戸時代から約350年に渡り続いた街道はその生涯を閉じました。※この板谷街道については相互リンク先の「街道Web」様で詳しくレポートされていますのでそちらをどうぞ。・・・・・・・・・・・こうして板谷街道を半ば犠牲にして取って代わる形で生まれ、栄えた大滝宿も現在の「栗子ハイウェー」の開通後は訪れる人も少なく、また深い山中にあるため生活水準も決して高くはなく、電話や電気についても導入がかなり遅れていたそうです。そのような理由から人々は山を降り村は廃村となってしまいます。板谷街道に代わる一大幹線道路沿いの宿場として栄えた大滝宿もまた、新道に取って代わられてしまったのは皮肉ですね。その後、バブル期になってこの歴史の宿場を観光地化する計画があり、店が作られ、茶処が作られ、また見世物小屋が作られました。かつて賑わいを見せた宿場の往時の雰囲気を再現しようとしたのでしょうか。・・・・・・・・・・・現在では大滝宿の入り口と少し先に数軒の営業中の店があるものの訪れる人もほとんど無く、村の中に入ると廃屋が立ち並び寂しさが漂っています。・・・かくして大滝は再び静けさを取り戻しました。そして現在、東北中央自動車道の計画が進められており、万世大路の栗子隧道の直下を貫く「新栗子トンネル」が掘削される予定です。皮肉にもその福島側坑口はこの「大滝」のあたりになるそうです。今後の交通事情から目が離せませんね。その1へ大滝宿諸説/その1/その2万世大路 メニューに戻る道部屋に戻るトップに戻る
https://ameblo.jp/bananabanabana19870921/entry-12018043757.html
こんばんは。廃村シリーズ第三弾。今回は大瀧宿(福島県福島市)訪問時期 2013年10月、2014年9月ここは明治10年。万世大路の建設拠点として発足。その後は宿場町として賑わっていましたが明治32年国鉄奥羽本線開通後、衰退への道をたどることに。村自体は昭和54年迄ありました。その後も観光地としての計画があったらしいのですが、結局駄目になりました。