http://kyuragi2011.blog.fc2.com/blog-entry-219.html
佐賀県伊万里市山代町楠久。かつて、ひしめく大小炭鉱により大いに活気付いた伊万里湾に面する当該地域。坑口から吐き出されたボタは沿岸の埋め立てに使用され、後に工場地帯として伊万里の産業発展に一役を買っている。今はローカル線の雰囲気を否めない松浦鉄道が渡る静かな川。
http://plaza.rakuten.co.jp/pess5547/diary/201112220003/
楠久炭鉱がここにあった9年間この道を歩いて小中学校へ通学したのだからうそじゃないホゲイワの坂をおりてきたらまずトロッコの線路があった朝はよくトロッコが坑道に入ってゆくのにであった待っていたらいつまでも時間がかかるのでトロッコとトロッコの間をすばやくすりぬけるの
http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/report05/imari/kusukutsu.html
炭鉱の村・明治期まで楠久津に炭鉱があったわけではない。炭鉱自体は周辺の山手にあったが、その作業員が暮らし、石炭の積出しを担ったりして、炭鉱とともに大いに賑わった。新田には社宅もあったらしい。戦後は、労働者として来た韓国人も見たとの話も伺った。 炭鉱として組織的な採掘がなされる前、楠久津を含む山代町では「燃える石」として石炭というものが、ごく日常的なものだった。これに目をつけたのが、佐賀藩だった。遅くとも天保年間(1830~44年)には、石炭採掘に膨大な税金をかけて一般人が掘れないようにし、特別な商人にだけ特許を与えて、幕府に内密に採掘していたらしい。明治になって、後に財閥となる大企業が石炭業界に手を伸ばす中、山代の石炭に参入してきたのは、地元周辺の比較的中小企業のような会社だった。石炭の採れる場所を知っているから、山という山に鍬を持っていって掘り出す、狸掘りだったらしい。 ・「炭鉱サマサマ」 大正6(1917)年、楠久炭鉱が開坑。他にも、山代、小岩、大久保、久原、国見、向山という炭鉱名も出た。戦時中に規模が拡大。山からロープウェイのようにしてケーブルで下ろし、トロッコで輸送。楠久津で船に積み替た。「気帆船の30(隻)くらいのがずーっと入って、石炭船の積出しば待っとらしたもんね。」1000トン級の鉄船も入っていたらしい。配炭公団という石炭分配の国の機関があり、その公団から許可をもらって船に積み、京阪神へ送り出した。それから、往時の賑わいの様子の話が次々と出てきた。 「(炭鉱に勤める家は)家族から子供から何から、金をね、親父が派手にやりよったけんね、物が売れるしさ…」「楠久津のこめか(狭い)部落にパチンコ屋の4軒かあったけんねぇ。」さらに、ビンゴ店もあった。「山代座」という回り舞台を備えた劇場もあったらしい。「ふとっかったぁー。」「伊万里んとよりふとかったもんね。」あちこちで声が上がる。「それから、食べモン屋ね、食べモン屋もいっぱいあったね。」八百屋や鮮魚店、駄菓子屋など、個人の家でしていたらしい。自宅にも風呂はあったが、炭鉱の銭湯にも通ったらしい。「女郎屋もいくらでんあった。あんたたち女郎屋って言ったっちゃわからんど。」その場にいた唯一の女性である福田さんが笑いながら言われ、男性陣も笑いながら、駅前や道向こうにあったやらで、小盛上り。注釈を付けておくが、周辺を含めて「いくらでも」あったわけで、楠久津には数軒だったという。昭和32(1957)年、禁止された。「俺がね(給料が)3千円くらいのときね、向こう(坑夫)は3万円くらいとりよった。」「うらやましかったねぇ。」と、当時、郵便局長であった方でさえもヤマの豪勢さを語られた。人の多さも目立ったという。当時、楠久津を含む山代町の人口は2万人。山代中学校は最高時1800人。樋口さんのころ、1クラス50人くらいの7組で1学年。これは西中学校と合併して山代中学校となる以前の東中学校だけの数字だ。もっとも、現在と比較して、出生率が桁外れに高かったこともある。中島さんは5人兄弟だが、少ないほうだったという。「隣は10人、10人おらした。」人が集落内を行き交い、夜には酔っぱらいも出たりして、喧嘩もあった。話の途中途中に、「景気が良かった」「賑わった」「炭鉱景気」などの形容が必ずと言っていいほど出てきた。路地を歩いていると、人の声が聞こえてこないなどありえなかったようだ。
http://nabeshima2010.blog135.fc2.com/blog-entry-153.html
佐賀県伊万里市山代町・・・・明治から昭和40年ごろまで、伊万里湾岸に中小あまたの炭鉱が操業、松浦鉄道鳴石駅近くにひろがる工業団地の埋立地一部はかつては楠久炭鉱のボタを堆積したものだという。その楠久炭鉱鉱業所跡付近をうろついてみる。