三枚山鉱山 概要・歴史
天正年間頃より金・角閃石が採掘された。
言い伝えによればこの金山には腕の良い「かねふき工」がおり、名古屋城の金鯱の鱗を一日三枚も造ったので、伊達政宗が金山の名を三枚山鉱山に改め職人には三枚山の姓を与えたという。また、月に金三枚(一枚は十両)も算出したからとも言われる。
近代以降、開発が試みられつつも経営が成り立たたなかったが、1937(昭和12)年からは国策により日本鉱業三枚山鉱山として運営された。縦坑は90メートル、水平坑の延長は40キロメートルにも及んだという。金鉱石は気仙沼市の大谷鉱山へ、銅鉱石は茨城の日立精錬所に送られた。鉱山へは優先的に電気が導入されたため、一帯では一般家庭にも配電され恩恵を受けたという。
1944(昭和19)年に閉山。施設の大部分は大谷鉱山へと移された。
坑道口は奥玉地区に3箇所、上折壁地区に2箇所あったという。
歴史的遺構として管理されている。
2021-01-11