陸軍上西郷航空廠弾薬倉庫(福津市の弾薬庫跡) 関連ブログ・参考リンク
http://allxa.web.fc2.com/archi/industry/senseki/kamisaigo.html
2012年9月23日 概要. 太平洋戦争中の1943縲鰀1944(昭和18縲鰀19)年、福岡県の上西郷村(現在の福津市上西郷)に陸軍の弾薬庫が建設され、鹿児島本線の福間駅から弾薬庫まで引き込み線も敷設された。弾薬庫の敷地は約100万平方メートルに及び、ツ黴
http://wantetsu.blog61.fc2.com/blog-entry-748.html
福津市の弾薬庫(陸軍上西郷航空廠弾薬倉庫). 一昨年の夏のある日、涼を求めて僕たち一家は山の手をさまよっていました。 その際、福津市の山間の田んぼの中に奇妙な建物を見つけました。 ※ 本日の記事は旧陸軍について扱っています
http://blogs.yahoo.co.jp/c_xantia_01/60635290.html
福岡県福津市の上西郷(かみさいごう)地区には、旧日本陸軍の“上西郷航空廠弾薬倉庫”が残されています。鹿児島本線の福間駅からこの弾薬庫の辺りまでは、物資輸送のための引込線が敷かれていたそうですが、その痕跡は殆ど無く、西郷川の北岸に残る橋台ぐらいしか見るべきものは
http://hibiki15.blog.so-net.ne.jp/2008-10-08
田んぼの中の廃墟。遠くから見る限り、農家の倉庫か何かにしか見えない。でも、近付くと、それがただの倉庫でないことに気付く。福岡県の福津市の田んぼの真ん中にあり、ここばかりは情報無しで偶然見つけることはよっぽど迷子になって迷い込まないと無理な場所です。調べてても地
http://www.yado.co.jp/tiiki/munakan/danyakuko/danyakuko.htm
福間に弾薬庫(だんやくこ) 1943年(昭和18)8月に、とつぜん陸軍から上西郷村に弾薬庫をつくりたいので 協力してほしいとたのまれ、土地100町歩(約100万㎡)を軍に提供しました。 ただちに弾薬庫・作業舎・兵舎(兵隊が寝とまりする所)などが 建設され、1944年(昭和19年)には、当時の国鉄福間駅からこの弾薬庫入口まで 鉄道の引込み線が敷かれました。 宗像中学と宗像高女の生徒に学徒動員(労働力不足を補うため学生や生徒に強制された労働) で爆弾の運搬や弾みがきなどの作業にあたりました。 この弾薬庫が一番使われたのは沖縄戦の頃だそうですが、一般の人には何も知らされず、 1945年(昭和20)の終戦と同時に閉鎖されました。翌年には鉄道の引込み線が取り去られ、今はあとかたもあ りません。ただ3棟残った弾薬庫跡は現在、農家の資材置き場として使われています。●平成12年(西暦2000年)に福間町が発刊した「福間町の歴史通史」には、もっと詳しい事が記載されています。その内容の概略を記載しておきます。 航空隊への補給物資集荷所の役目を負った上西郷村の航空廠(しょう)は昭和十八年から 十九年にかけて突貫工事で造られた。 施設が完成した十九年には空襲を受けて北九州の工業生産力は大きく落ち込み、大刀洗航空隊の被害も甚大で、 結果的にはその役目を果たせないまま終戦となって閉鎖された。 広大な航空廠(しょう)の跡地は。福間町総合運動公園(なまずの郷)の南側一帯の田畑で静寂そのものである。引込線 の終点だったところに、当時のプラットホームの一部が残されている。 航空廠(しょう)の物資貯蔵庫は一部が横穴式のものであり、木造の倉庫がかなり点在していた。上空からの敵機の目を カムフラージュするために、田畑のあちこちに倉庫があるといった風景にされていた。 工事現場一帯には弾薬庫や倉庫など四十数棟ができあがり。また別の地域には軍人官舎が建ち並ぶなどして田園風景は一変した。 航空廠(しょう)の工事では山久から四軒。大森から二軒の農家が強制移転させられたが、谷底神社も移されることになって大森神社の一隅に鎮座することになった。 防衛庁防衛研究所所蔵の、「元軍用地に関する調査報告書」には航空廠(しょう)用地として七〇町歩の買収が記録され ている。