手向砲台(手向山砲台、田向山砲台)は、福岡県北九州市にあった旧日本軍の陣地。 当時は「田向山」と...

手向砲台

手向砲台 概要・歴史

手向砲台(手向山砲台、田向山砲台)は、福岡県北九州市にあった旧日本軍の陣地。 当時は「田向山」と...
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手向砲台 ストリートビュー・空中写真

手向砲台 関連ブログ・参考リンク

http://www1.linkclub.or.jp/~oya-wm/smfzfile/smfz.summary.html
西日本方面では、特に関門地区防衛のため下関・門司地区に砲台などの要塞施設が 構築されました。当時、世界 . 昭和期に入り、主に小倉造兵廠を防衛する防空陣地が 構成されていきましたが、その陣地で明治当時のものを活用したのは手向砲台だけです 。
http://homepage2.nifty.com/kitaqare/mido19.htm
手向(たむけ)山は小倉北区の北東部にある標高70m程度の小山です。宮本武蔵と . 台が見えます。 関門海峡周辺の下関・門司(小倉も含まれる)地区に、敵艦隊と砲撃戦を 行う砲台と、砲台などの背面防御が目的で小口径砲を備えた堡塁が築かれました。
http://members.jcom.home.ne.jp/eirakuan2/mo-nisisin.htm
2 小笠原お茶屋跡, 5 長倉戦手向・藤松古戦場跡. 3 石碑, -. 1 笹尾砲台跡. 関門海峡を 通過する敵艦を想定して造られた下関要塞の一つとで、明治20年10月に着工し、明治 22年9月に竣工しました。 手向砲台の倉庫額石の二は、「弐」の字を使っていました。
http://yokotaoojiro.blog72.fc2.com/blog-entry-28.html
【 下関要塞・手向砲台跡 】. 久々の更新です。 いつも訪問してくださってる方々に本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです・・・。 ならばもっと更新しろよって話ですが・・・w さて今回も自作の動画紹介です。 先日北九州にある手向山公園に写真撮影 
http://isisis.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-c6d6.html
田の首村(彦島)・筋山・竹の子島・名古屋岬(戸畑)・小倉・防波堤など. Tamuke13 「探照灯」施設へ通じる道・・・ Tamuke04 · Tamuke03 「探照灯」近くにある謎の2種類の石柱・・・説明板なし. Tamuke19 山頂にある「砲台倉庫(弾薬庫)群」 第一号から第五号 
http://blogs.yahoo.co.jp/c_xantia_01/39828671.html
小倉北区と門司区の境の海沿いに手向山(たむけやま)という小高い山がある。巌流島の戦いで有名な宮本武蔵と佐々木小次郎の石碑があることで知られている。恐らく北九州市民には知らない人はいないのではないだろうか。ここにも明治時代に作られた砲台跡がある。諸施設の完成は1
http://hibiki15.blog.so-net.ne.jp/2007-03-08
国道3号線から手向山公園の案内にしたがって入ると砲台跡のある小高い山に登ることができる。登ってる途中、早くも遺構の案内を発見!「照明所」の跡らしい。ここに残ってるのはほとんどが明治期のものだということです。どんな照明だったのかはわかりませんが強力なサーチライト
http://exploring66.blog.fc2.com/blog-entry-74.html
大津島を後にして次に下関に向かったとりあえず下関で宿泊~なんだけど・・・電車の中からすごい混雑してたから、なんだ?って思ってたら
http://heiji303.blog21.fc2.com/blog-entry-160.html
シリーズでアップしている宮本武蔵と下関要塞・手向山砲台。北九州市小倉北区手向山。ここには、宮本武蔵と明治、昭和期の軍事遺産が眠っている。
http://wonderinholiday.blog.fc2.com/blog-entry-655.html
砲台から少し離れた所に探照灯の跡が残っています。それも大分しっかりと。このような探照灯の跡は見たことがありません。ここにしかないかも?明治期のも
http://wonderinholiday.blog.fc2.com/blog-entry-653.html
前回、下関要塞の火の山砲台について取り上げましたが、続いて九州側の砲台をひとつ。火の山砲台と同じく明治期に建造され、今は公園になっている砲台があ
http://www1.linkclub.or.jp/~oya-wm/smfzfile/tamukefile/tamuke.html
手向砲台跡(手向山公園)手向砲台跡(手向山公園)の地図1・三号線沿いの公園看板2・火葬場跡(現公園管理小屋付近)3・探照灯台座跡4・西方観測所?跡5・砲台座群・倉庫群跡6・東方観測所?跡 小倉北区の中心地から門司区方向に国道三号線を走っていくと、一個所だけトンネルをくぐる場所があります。このトンネルの南側が手向山です。明治期には田向山と書いていました。この名は、宮本武蔵に縁のある家がこの山全体の所有者だったことに由来するようです。明治時代まで、宮本家代々の墓が山頂部にあったそうです。そしてそこが明治以降砲台として利用され、墓は立ち退きを余儀なくされました。このページの趣旨から外れるので詳しくは述べませんが、この件はなかなかに考えさせられる事だと思っています。 さて、明治初期、当時の大日本帝国は主要沿岸防備に神経を使わねばならない弱小国であったといえます。朝鮮半島に近く、瀬戸内の海運の玄関口である関門海峡を防備するために、この地域には西日本で最高級の防御体制が敷かれていたと思います。いくつもの防御陣地のうちのひとつがこの手向山砲台です。 まずは「現小倉北区内の地図」をご覧下さい。手向山は北九州市「小倉北区」と「門司区」の境界、小倉側にあります。ここは、対馬海峡方向から関門海峡に進む船舶の早期監視に非常に都合の良い位置です。山全体が要塞地域に指定され、明治20年頃から昭和20年の敗戦まで民間人立ち入り禁止の場所でした。 1・三号線沿いの公園看板 三号線のトンネル付近に公園の看板が有ります。まず見逃すことは有りません。 写真の中では最底辺中央の丁字路部分に相当します。この看板の前から道なりに登って行けば、公園内に保存されている遺構のほとんど全てを見てまわることが出来ました。道順に紹介していきます。写真1 左側の灰色線が国道三号線、緑色の地域が公園 中央やや上方の黄色部分が手向山砲台のあった場所2・火葬場跡(現公園管理小屋付近)写真2、3 煉瓦造りの建物 探索に訪れた時は全く知りませんでしたが、この赤煉瓦の建造物は、明治期の陸軍の火葬場だったそうです。現在は、隣接する公園管理小屋の倉庫... 六箇所の砲台座は中央四砲座が直線に位置し、左右端はやや折れ曲がって配置されていたそうです。現在は、臼砲はもちろんそれを備え付けた台座も撤去されています。また公園化されたときに埋め立てや舗装工事が行われ、戦時中の状態はほとんどわかりません。さらに現在、再度の公園化整備が行われており、原型をとどめていると思われる部分は見つけられませんでした。・倉庫部分について 六砲台座を分割するように、五箇所の倉庫が備えられていました。この入り口は、コンクリブロックで目張りされたり気味悪い塗装がされているものの、四箇所がほぼ原型のまま遺されています。写真23の第五倉庫部分(写真15の軽トラックが停車している辺り)はかなり埋め立てられており、わずかに入り口上部の石碑を見ることが出来ます。写真18 第一倉庫部分          写真19 第二倉庫部分写真20 第三倉庫部分          写真21 第四倉庫部分写真22 写真7中央部の石碑       写真23 第五倉庫部分6・東方観測所?跡写真24、25 「3・西方観測所?跡」の写真11、12と類似した構造物 砲台および倉庫群を過ぎると、少し離れた位置にこのような遺構があります。垣根によって遮られた位置に有るため、ここだけは公園内通路を歩いているだけでは見ることは出来ません。しかしそれがために、あまり破壊されていない遺構として遺されています。周囲は木立が生い茂り、もはや当時の観測所としての景色を見晴らすことはできません。また斧形(写真25の湾曲部分に注目)の観測所?跡の中央円形部分は、完全に土砂によって埋没しています(「3・西方観測所?跡」の写真13、14相当部分)。倉庫跡はともかく、この観測所?跡を見つけることが出来たのは幸運だったと思います。 ここは現在、「手向山公園」として整備が進められています。第四倉庫のように、訳の分からない品のない塗装をされるのは情けない限りですが、たとえ原型が分かり難くなってしまうとしても、このように人が訪れる場所として戦争遺構を整備活用してゆくのは大切なことだと思います。犬と散歩中の近所の人、ひなたぼっこするおじさん、展望台の上で関門海峡を見ているアベック、木の実を拾い歩く親子、いい景色だと思います。そしてその景色の中に、写真なぞ撮り歩く男がいてもいいじゃないですか。
https://tabi-bito.net/tamukeyama-battery-remains-kitakyushu-city/
手向山砲台跡へ宮本武蔵の養子である宮本伊織が、江戸時代初期に建てた、父、武蔵を顕彰する石碑、「小倉碑文」を見るために登った手向山。その小倉碑文の裏側に砲台跡は、残っています。