倶知安鉱山(脇方鉱山)は北海道虻田郡京極町にあった鉱山。三井鉱山、北海道製鉄、日本製鋼所、輪西製...

倶知安鉱山(脇方鉱山)

倶知安鉱山(脇方鉱山) 概要・歴史

倶知安鉱山(脇方鉱山)は北海道虻田郡京極町にあった鉱山。三井鉱山、北海道製鉄、日本製鋼所、輪西製...

倶知安鉱山(脇方鉱山) 画像

倶知安鉱山(脇方鉱山)(1976年9月)
©国土地理院

近くのスポット

倶知安鉱山(脇方鉱山) ストリートビュー・空中写真

倶知安鉱山(脇方鉱山) 関連ブログ・参考リンク

http://members3.jcom.home.ne.jp/bighorn3/kouzann/wakikata/wakikata1.html
倶知安鉱山(脇方鉱山)2011年4月5月探訪大正時代の歴史の中で忘れる事のできないものに脇方鉱山の開発がある。この鉱山のおかげで汽車も早く開通し、以後50年にわたり、京極町の発展に大きな影響を与えた。日鉄鉱業㈱倶知安鉱山の沿革史には、この鉱山は褐鉄鉱床として、
http://norakurakyougoku.blog.fc2.com/blog-entry-25.html
脇方を何度か紹介したが、今回は雑多に遺物を紹介。地図の緑色マークの番号順に写真を載せるため、参照されたし。①脇方小中学校跡地廃棄物最終処理場のすぐ目の前。校門と石碑、少し奥へ行くと煙突がある。②古びた橋橋の名前は知らない。確かめようにも、橋へとつながる道はゲー
http://www12.tok2.com/home2/airtax04/tan5.htm
脇方鉱山炭鉱・鉱山のあった風景HOME
http://ponsyuto.shime-saba.com/kyougoku-wakikata.html
京極町立脇方小中学校明治44年4月1日開校昭和45年10月31日閉校平成21年5月訪問京極町の市街地から道道784号線を奥へと進む日鐵鉱業倶知安鉱山が操業していたその地奥には京極町一般廃棄物最終処分場の真新しい建物がその地までは途中農地を横目に車を走らせるが建
http://www12.tok2.com/home2/airtax04/tan4.htm
倶知安鉱山炭鉱・鉱山のあった風景HOME
http://junk-life.blog.so-net.ne.jp/2010-08-29
脇方駅があった辺りの裏手?正面側にありました。・明治44年4月1日開校。・昭和45年10月31日閉校。この横には校門も残されていたが、草が深く撮影は出来なかった。校舎は山側にあったようだが、こちらも草が深く何も確認出来なかった・・・。
http://lib-kyogoku.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/11/paper94.pdf
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/01-3.Doo/Kyogoku_Wakikata.html
      ◆脇方(わきかた)※ 明色部(暗色部左上は字松川(まつかわ)、右上は字中岳)※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「倶知安」(昭和44.12)を加工し使用したものである所在:京極町脇方地形図:京極/倶知安形態:川沿いに家屋や施設が集まる離村の背景:産業の衰退標高:約350m(中心部)訪問:2014年5月  町の中部、ワッカタサップ川およびその支流沿いにある。 町史によると、行政字としてはかつての字カシプニと呼ばれた場所の一部。昭和16年4月1日、字名改正により錦・東花・大富・脇方・中岳の5字に分割された(字ペーペナイの一部も含まれている)。地名の由来は、「カシプニの一部で古くより呼び馴らされし懐しき名をそのまま存置せしむ」。なお本来は駅名のほうが初出で、その由来は路線が通る地域の名称「ワッカタサップ」の頭4文字に「脇方」の字を当てたもの。 当地の開拓の始まりは、明治期に入植した福島団体。以降、舟山団体・信夫団体・和歌山団体が地内に入植していった(※1)。脇方鉱山の開鉱後は、鉱山従業員の居住地として変貌。※1 なお「角川」では明治41年の福島県以降、宮城県から28戸、山形県から25戸、山梨県から53戸が入植とある 以下、各団体および鉱山について概要を記す。・福島団体(画像1) 明治41年4月入植。団長は信夫郡吉井田村【現・福島市】の佐藤氏で、翌年までに29戸全戸が入地した。位置は字南西のワッカタサップ川左岸側。凶作・地力の減退や脇方鉱山の開発により、昭和14、5年頃には就農者は数戸に過ぎない状況であった・舟山団体 明治41年5月入植。信夫郡吉井田村の団長舟山氏をはじめ、同村の出身者12戸。位置は後の脇方駅付近。後年は駅や官舎・鉱山事務所・社宅・学校用地などとして買収され、当時の団員は離散した。・信夫団体(画像2) 明治44年8月入植。団長唯山氏をはじめ、信夫郡吉井田村および土湯村【現・福島市】出身者の27戸。位置は字の東側。・和歌山団体(画像3) 大正3年6月入植。団長は和歌山県人の北風氏。位置は字中北部の狭い地域。...東京の橋本氏の所有を経て、大正5年三井鉱山株式会社の所有となり本格的に開鉱。大正7年北海道製鉄に譲渡。のち日本製鋼所に併合、同社の所有となり、日本製鋼所倶知安鉱業所となる(※2)。大正10年に一時休山し、同14年操業再開。閉山は昭和44年。鉱石輸送のため、大正9年には脇方線(京極‐脇方間)及び脇方駅が開業。※2 最終的には日鉄鉱業の所有となっているようだが、町史にその経緯は記載されていない。大正14年の再開時か なお脇方小学校は、明治44年4月1日に東倶知安第一尋常高等小学校付属奥ワッカタサップ特別教授所として開設、昭和45年10月30日廃校。脇方中学校は、昭和22年4月開校(小学校に併置)、昭和45年3月31日廃校。 地図画像の神社のうち、中心部のものは鎮守の天照皇大神宮、東側のものは山神社と思われる。いずれも離村後は京極八幡神社に合祀。 現地では旧脇方駅付近を中心に、僅かな遺構が確認できる程度。建物の類は、松川との境界付近にある道道沿いの家屋と、駅付近の町営廃棄物最終処分場といったもの。学校跡には門柱と碑が残り、校舎の基礎も確認できる。駅跡は整地されており、痕跡は確認できず。駅前付近の碑(写真21)には「日鐵鑛業株式会社 北海道鑛業所/倶知安鑛山記念碑」とあり、往時の盛況を物語る。 写真1 建物跡写真2 鉄道の橋脚写真3 学校門柱(南側)写真4 碑。後方は処分場写真5 学校門柱(北側)写真6 校舎と校庭の間にある階段写真7 校舎跡写真8 同。柱状のものは煙突写真9 支流(白井川)沿いの街路写真10 写真9沿い建物跡写真11 同。何かの遺構写真12 支流の橋写真13 支流右岸住宅跡写真14 同写真15 同写真16 同写真17 鉄道の橋梁跡写真18 最近の地形図の「畑」付近の建物跡写真19 駅前付近?写真20 施設跡写真21 碑と何かの倉庫写真22 施設跡写真23 鉱山施設写真24 ワッカタサップ川と対岸の平地写真25 東側の「鉱山」の記号付近画像1 福島団体※ 以下の地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「倶知安」(大正8.9)を使用したものである画像2 信夫団体画像3 和歌山団体
http://nonintheair.blog78.fc2.com/blog-entry-2870.html
更に奥へ進んで行きます。途中、赤くない綺麗な池があったり…。わっ!すごい、大きな遺構です!ホッパー?選鉱所?風道?どういう風に使われていたんだろう。
http://knaruse.blog94.fc2.com/blog-entry-182.html
京極町脇方(平成30年2月10日探訪)京極町脇方は明治期に福島団体が入植したが、後に鉱山集落へ発展を遂げた。明治41年 福島団体(信夫郡吉井田村 佐藤久三郎団長)29戸        舟山団体(信夫郡野田村  舟山亀之助団長)12戸明治44年 信夫団体(信夫郡吉井田村・土湯村 唯木七郎治総代人) 27戸大正 3年 和歌山団体(北風種吉総代人)戸数不詳 が脇方地内に入植した。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top8101.html
「ワキカタ」と呼ばれた北海道鉱業所倶知安鉱山京極町の秀峰、蝦夷富士と呼ばれる「羊蹄山」1,892m。アイヌ語地名は「マッカリヌプリ」、かつては女山の意味の「マテネシリ」。見るのを後回しにすると、妬いて雲に隠れるとの逸話がある。 京極町内からワッカタサップ川に沿って登る。昭和46年(1971)廃止の国鉄胆振線京極-脇方間のルート上だ。鉱石輸送のため大正7年に軽便線として計画されたのが発端だ。 ワッカタサップ川を渡る旧線の橋脚跡。建設工事はトンネル等難工事無く、橋梁も3か所と全区間平坦地でもあり、大正9年には落成式に至る。 付近では廃線に関する遺構が増えてきた。ここには40kg級とみられるレイルが残存している。当初は軽便鉄道であり、一般貨客の取扱をしない貨物専用線であった。 道路と違い直線で繋ぐ廃線跡のピアとアバットである。脇方-京極間は最も早くに開業し、喜茂別や室蘭本線との接続は昭和3年/15年と更に後のこととなる。 街から遡ること約7kmで終点、脇方駅跡へ到達となる。付近は京極町 一般廃棄物最終処分場となっており、平成12年に周辺を整備した際には、大量の枕木やレイルが出土したらしい。 脇方小中学校の校門跡が残る。明治42年に特別教授所として開設され、中学校は昭和22年に併設。校門は昭和3年に鉱山組合より寄贈、昭和45年10月には廃校となった。 小中学校前に残る住居らしき遺構群。駅の西部に国鉄宿舎や脇方郵便局などが存在したようで、理髪店や呉服店など華やかな街としての機能を有していたようだ。 付近には他にも市街地跡の痕跡が残る。徳舜別、虻田、桂岡、 八雲などを総括する日鉄鉱業の本部としての機能を持った通称「日鉄本部」と謳われた倶知安鉱は百数十名の社員がいたという。 少し上流には危険庫の廃祉が残る。かつては「日鉄鉱庫」と呼ばれた施設も、昭和23年発生の脇方大火の延焼をギリギリ免れた。 この付近から遺構は一気に増加する。閉山の主原因は良質の鉱石が底をついたことだが、質が良く、コストパフォーマンスに優れた外国産鉱石に押されたのは現状であろう。 右岸には治山された跡があり、地下水集水ポンプの制御盤がある。これは地滑り対策として近年工事されたもののようだ。 その治山の丘の奥には長大な遺構が見える。あれは恐らく鉱石積込施設のホッパーであろう。近づいてみよう。 かなり巨大な施設だ。昭和16年に鉱石運搬能率増強のため、鉱床に通じる電車線が仮設された。鉱床と鉱倉間1.5~2.0km間に5台の電車が運転された。 ホッパーに沿って鉱床方面に向かう。昭和45年の休山に伴い、付近の商店、魚菜店、豆腐店などは逐次廃業、転出となり街の活気は一気寂しくなったそうだ。 上流域には巨大な廃墟群が現れた。基台の先には2連の丸い煙突状の遺構だ。かなりの荒れ地で足元に十分注意だ。 これは冒頭解説したロータリーキルンの粉砕投入口付近のようだ。2連並んだ遺構が迫力だ。更に深く見てみよう。 この煙突のような形状のものは、恐らく廃ガス煙道で粉砕機を通った鉱石の投入口でもある。中から延びる白樺が年月の経過を感じさせる。 耐火煉瓦で組まれた煙道内部である。この下部に回転炉の入口部があるはずだ。ここはたぶん除熱ボイラーに繋がっていたはずだ。 煙道を裏から見る。この規模から言うとロータリーキルンの外形はφ2,300程度だろうか。長さも10m超でもおかしくない。 更に奥にも遺構は続く。脇方郵便局は43年間、国鉄脇方線は50年と2か月、小学校は62年、中学校は23年。それぞれ鉱山の無人化に伴い、その歴史に終止符を打つ。 戻るトップページへトップページへ