金瓜石鉱山 概要・歴史
金瓜石鉱山(きんかせき こうざん)は台湾北部、旧台北州基隆郡にあった金鉱山。
清朝統治時代の1890(明治23)年に発見された。1895年(明治28年)からの日本統治下、田中長兵衛の田中組によって開発が進められ、1902(明治35)年頃には年産金量が2万両(約750kg)に達した。
1904(明治37)年6月に獅子岩の麓で豊富な硫砒銅鉱が発見され、田中長兵衛と技師長小松仁三郎の名前を1字ずつ取って「長仁鉱床」と命名された。
第一次世界大戦後の1918(大正7)年、田中鉱山株式会社に経営権を委譲。
1925(大正14)年、長兵衛の後を継いだ田中長一郎より株式を譲り受けた後宮信太郎が金瓜石鉱山株式会社を創設、そちらに経営権が移る。
1933(昭和8)年、日本鉱業株式会社が経営権を買収、台湾鉱業株式会社を設立。1935(昭和10)年には1年に粗鉱量100万tを処理する東洋一の大鉱山となり、住民人口も15,000人を数えるまでなった。福利厚生施設も充実し、映画館だけでも3つ、ほかに学校、郵便局、合宿、病院、旅館、日用品供給所、プール、テニスコート、陸上競技場、武道館、相撲場、弓道場、神社、寺院、火葬場から共同墓地までありとあらゆる設備が整っていた。
太平洋戦争中は労働力が欠乏し、英国人捕虜や台北刑務所の囚人までを駆り出し、過酷な労働に従事させた。
終戦により一時閉山となったが、中華民国政府により金銅鉱務局設立準備処が設立され、1955年には金瓜石鉱山が再度組織された。新たに金瓜石に金銀製錬工場を、また水南洞に沈澱銅を製錬するための溶鉱炉、反射炉と電錬工場を建設され、一時的に活気を取り戻したが、鉱脈が尽きたことから1985年に廃業を決定、1987年に閉山となった。
現在もなお、十三層遺跡(金瓜石十三層遺址)とも呼ばれる銅精錬工場跡をはじめ、地下坑道、鉱山事務所、日本人宿舎、黄金神社など、多くの遺構が残されている。一帯は金瓜石黄金博物園区として整備され、世界遺産への登録に向けた取り組みがすすめられている。