仁科鉱山は静岡県賀茂郡西伊豆町の鉱山跡。 アルミニウムの原料となる明ばん石を主に産出していた。193...

仁科鉱山

仁科鉱山 概要・歴史

仁科鉱山は静岡県賀茂郡西伊豆町の鉱山跡。 アルミニウムの原料となる明ばん石を主に産出していた。193...
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仁科鉱山 ストリートビュー・空中写真

仁科鉱山 関連ブログ・参考リンク

http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/nisinakoozan-01.html
比しなんと犠牲の多かったことか。ちなみに秋田の花岡鉱山で起こったいわゆる花岡 事件も同時期である。 . 特に金属鉱山の場合は上流でその廃鉱水が混じっていない ともかぎらないので飲むのはやめたほうがいいだろう。もっとも少しぐらい飲んでもすぐに
http://orange.zero.jp/zbc54213.wing/nisinakoozan-01.html
翌1943年宇久須鉱山は宇久須鉱業(株)が仁科鉱山は戦線鉱業(株)<国策企業・初代社長は軍人>が設立されアルミ増産に励む。 . 特に金属鉱山の場合は上流でその廃鉱水が混じっていないともかぎらないので飲むのはやめたほうがいいだろう。もっともツ黴
http://kodou.lolipop.jp/nishina-sensen1.htm
仁科の「戦線鉱業 仁科鉱山」跡を訪ねる~その1探索 第1回 2006年10月22日(日)    プロローグ  1980年8月10日、日曜日。就職と同時に伊豆に帰ってきてから、初めての夏休み。私は当時乗っていた1972年式スズキハスラー250で、河津から大鍋越えをへて松崎に抜け、海岸線を北上し、仁科から再び山間部に入って諸坪峠を経て河津に抜ける、というコースの林道ツーリングに出かけた。(当時は林道にゲートが設けられておらず、そういうコース設定が可能だった) その途中、鬱蒼と茂る森の中の林道が白川の集落を抜け、かなり上に上った辺りで、不思議な塔を見つけた。まだ新しい白いコンクリート製の塔に、ロープを持った鉱夫風の男性の像が立っている。 塔にはめ込まれたプレートを読むと、かつてこの地にあった戦線工業株式会社のアルミ鉱石(明礬石)の採掘現場で多くの中国の人たちが過酷な労働条件の下で命を落としたとある。その慰霊のために建てられた塔であったのだ。 静かで穏やかな深山の中でそこだけ異様な光景が広がり、亡くなった人たちの怨念のようなものを感じて、私は思わずバイクのアクセルをひねった。 今から26年前のことである。 その後伊豆新聞などで、日中友好協会や仏教会の主催により、毎年、亡くなった人たちの供養祭を行っていると読んだ。遺骨は既に本国に送られ、かの地で眠っているが、日本では過去の過ちを忘れず、次世代に申し送る意味もあって、供養祭を営んでいるらしい。 が、それに反して、鉱山の位置や様子、どこにどのような施設があったのかなどは資料が公開されておらず、まるで封印されたかのようにページを閉ざしているのだ。  しかし2年前、下田市の社会科の教員のために開かれた研修会で、その道の権威であるT橋先生のご講演があった。その中で、先生が松崎高校ご勤務時代に松高の郷土研究部の生徒と共に戦線工業仁科鉱山について調べたスライド(既にPC用に映像を変換されていた)を見せてくださった。運よくその場に紛れ込んでいた私は、これ幸いとばかり、目を皿のようにして拝見した。 そのスライドは、現地の山々の写真や古老から聞き取った現地の見取り図などから構成され、最後は鉱石を積み出した仁科港で終わ...たいここから下方へ何m下っているのだろうか。それは見る者を奈落の底へ落としめるような恐ろしささえ感じさせた。 ここで、4つのプラットフォームを眺めてみよう。 これは、西側から俯瞰したところの画像である。   次に、上から覗いてみる。 これが、左端のプラットフォームだ。 幅は2.5mほど。 これを1号とする。 とすると、これが2号。         さらに、3号。             そして、これが右端の4号となる。           それぞれの隔壁に刻まれたこのスリットには、何が嵌め込まれていたのだろうか?   プラットフォームの傍らに、錆びた金具が落ちていた。        しかし、これは私が想像していたインクラインの方向と違う。規模も全く違う。こんなに大規模なインクラインだとは想像だにしなかった。 なぜ誰もこのことを語らなかったのだろう。そして今に伝えていないのだろう…。2本の水平な道 インクラインの山頂駅、と言っても正確には山頂ではなく、尾根の小ピークである。広さは、テニスコートがゆったり1面とれるくらいであろうか。落ちていたプーリーがある箇所は、これからインクラインに積み込む鉱石置き場だったのだろうか。 そこから、尾根で分けられるように2本の水平な道が尾根の左右を奥に走っている。 プラットフォームの奥に延びる水平道  道幅は4mほど  車が1台通れるほどの幅である 上の画像は、北斜面につけられた道である。傾斜は右から左へと下っている。KAZU氏はこれを採掘跡だろうと仰る。 が、それにしてはこれだけの規模の施設を誇る割に、採掘の跡が小さいのではないか。また、過酷で危険な重労働によって多数の命が失われたにしては、運搬器具があれば、この程度ならそうそう大変な仕事のようには思えない面がある。 この疑問を私は暫く持ち続けていたが、それは私たちの探索がまだこの時点で緒に就いたばかりだったからだ。後に、磯氏の資料を手がかりにしてKAZU氏が見事にその疑問の解答を見つけることになる! 次号を待て!            「戦線鉱業仁科鉱山を訪ねる~その2」を見る                                             トップ
https://ameblo.jp/pairzu/entry-12424859031.html
夏前から気になっていた仁科鉱山❤︎太平洋戦争末期、国は西伊豆のミョウバン石を利用してアルミを生産する計画を立てたの。国策会社として設立された企業は〝戦線鉱業〟(ネーミングが直球過ぎ)軍の力をバックに土地を強制接収し、主に受刑者・朝鮮人・中国人を使ってミョウバン石を採掘してたらしいわ。全盛期、朝鮮人だけで2,000人が住んでいたんだって!【賃金】朝鮮人は1ヶ月30円、中国人は25円。【食事】朝鮮人はパン、中国人は豆カス。【採掘道具】皆は削岩機、中国人はツルハシ。